レビ記2章

2:1 人が主に穀物のささげ物を献げるとき、そのささげ物は小麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、その上に乳香を添え、

2:2 それを祭司であるアロンの子らのところに持って行く。祭司はその中から、ひとつかみの小麦粉と油と乳香すべてを覚えの分として取り出し、祭壇の上で焼いて煙にする。これは主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。

 穀物の捧げ物は、小麦粉です。これは、人となられた主イエス様の比喩です。その上に油を注ぐことは、聖霊によって歩まれたことを表しています。乳香を添えることは、その歩みが神を満たす良い香りを放っていたことを表しています。

 それを祭壇に捧げるのは、アロンの子たちである祭司の役割です。彼は、ひとつかみの油注がれた小麦粉と乳香の全部を取り出します。それは、覚えの分で神が覚えるためのものです。乳香は、神のために捧げられます。神様は、人となられて、聖霊によって歩まれた主イエス様を覚えられて満たされます。

2:3 その穀物のささげ物の残りはアロンとその子らのものとなる。それは主への食物のささげ物のうちの、最も聖なるものである。

 穀物の捧げ物の残りの分は、アロンとその子らのものとなります。それは、祭司たちもそれを味わうためです。人となられて歩まれた主イエス様は、祭司たちの倣うべき模範です。祭司たちも神の御心を行って生きることを求めています。そのような観点から、主イエス様を覚えるのです。その時、主イエス様の歩みの偉大さを覚えることになります。

 それは、主への食物の捧げ物です。主がこれを受けられて満足されます。それは、食物の捧げ物の中で、最も聖なるものです。聖なるものは、分離していること、神聖なことを表します。これは、祭司が口にしますが、主の食物として捧げられたものです。その意味で聖なるものであるのです。ですから、祭司は、自分のための食物として扱うのではなく、主がいかにイエス様によって満たされたかという観点に立って、主が味わわれたように、味わうことになります。

・「最も聖なるもの」→聖、聖。聖を意味する名詞が二つ連なっていて、連語になっています。聖なることが強調されています。聖なることは、神のものであるという意味です。

2:4 あなたがかまどで焼いた穀物のささげ物を献げる場合には、油を混ぜた小麦粉の、種なしの輪形パン、あるいは油を塗った、種なしの薄焼きパンとする。

 ここからは、焼いて捧げられる穀物の捧げ物について規定しています。焼き方には、三種類ありました。

 かまどは、神の裁きを表しています。しかし、穀物の捧げ物は、罪のためという要素はありません。これは、全焼の捧げ物と同じく、自主的に捧げられる捧げ物です。かまどは、神の裁きの中で、人として全き歩みをされた主イエス様の偉大さが表されてます。聖霊の導きのままに、御心を全うされた偉大さです。誰も経験したことのない神の裁きを受ける中で、御心を全うする偉大さを示されたのです。人の目には知り得ない、父と子の関係にあって、受けた試みです。主イエス様を悲しませたのは、父の苦しみを知るからです。父は、御子を愛しておられるので、大いに心を痛められました。それで、父の前に三度も祈られたのです。自分のために祈っていたのではありません。

 バンとして焼くために火にかけられるのです。これは、裁くためではなく、火によって真価が現されるためです。

2:5 また、あなたのささげ物が、平鍋の上で焼いた穀物のささげ物である場合には、油を混ぜた小麦粉の、種なしのものでなければならない。

 平鍋で焼くことは、真価を試すためのものです。それは、かまどのような特殊な環境ではなく、人としての歩みて受ける試みです。人の目にも分かる試みです。そのことは、祭司の常供の捧げ物としての穀物の捧げ物は、平鍋で焼かれるからです。そこにも、平鍋の表すものが人としての歩みで受ける試みを表していることが分かります。祭司が人としての歩みにおいて経験する事柄の中で、完全であられた主イエス様を捧げ物として捧げるのです。

 油を混ぜた小麦粉は、人となられて御霊によって御心を全うされたイエス様を表しています。

レビ記

6:20 「アロンが油注がれる日に、アロンとその子らが主に献げるささげ物は次のとおりである。小麦粉十分の一エパを常供の穀物のささげ物とする。半分は朝、もう半分は夕方の分である。

6:21 それを油でよくこねて平鍋の上で作り、粉々にして焼いた穀物のささげ物として携えて行き、主への芳ばしい香りとして献げる。

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2:6 あなたはそれを粉々に砕いて、その上に油を注ぎなさい。これは穀物のささげ物である。

 焼かれたパンは、粉々に砕かれました。父の御心を成し遂げたことについて、ご自分を砕かれたのです。ご自分を現すことはありませんでした。それゆえ、聖霊は豊かに注がれ、主イエス様を通して働かれたのです。

2:7 また、鍋で作る穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉で作る。

 これは、鍋で作られました。特に焼くことは記されていませんが、蓋付きの鍋あるいは、深鍋で作られました。これは、人として、見えないところで受けられ試みを表しています。その中にあっても、聖霊に満たされて歩み、御心を全うされました。

2:8 あなたは、これらの物で作られた穀物のささげ物を主のもとに携えて行く。それをあなたが祭司のところに持って行き、祭司はそれを祭壇に献げる。

2:9 祭司は、その穀物のささげ物から一部を覚えの分として取り出し、祭壇の上で焼いて煙にする。これは主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。

 それは、主のもとへ携えていかれました。そして、祭司が受け取り、一部を祭壇で焼いて煙にします。主にとって食物であり、香ばしい香りです。それを受けられて満足されます。人となられて、聖霊によって歩み、御心を行われたことは、主を大いに満たすものとなりました。

2:10 穀物のささげ物の残りはアロンとその子らのものとなる。これは主への食物のささげ物のうちの、最も聖なるものである。

 穀物の残りの物は、アロンとその子らのものになります。すなわち、祭司たちのものとなるのです。それは、聖なるものです。主への食物の捧げ物として捧げられたものを祭司が味わうことになります。祭司たちは、自分のための食物としてそれを食べるのではなく、主が主イエス様を覚えるのと同じ観点から覚えるのです。

2:11 あなたがたが主に献げる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。パン種や蜜は、少しであっても、主への食物のささげ物として焼いて煙にしてはならない。

 また、その捧げ物は、パン種が入ってはなりませんでした。パン種は、正しくない教えを表しています。主イエス様には、そのようなものは、一切ありませんでした。イエス様の心を占めていたのは、父の御心でした。さまざまな教えがあることをご存知でした。しかし、主イエス様は、父の御心だけを行われ、また、それによって満たされていました。 

 また、それは祭司にとって、主イエス様を覚えるのに、それが間違っていたら、主は、喜ばれないのです。間違った教えによるならば、受け入れることはできません。

 そのことは、教会において、唇の果実を捧げるにしても、間違ったことを言っていては、他の信者も、アーメンということができません。

 蜜は、人の喜びを表しています。イエス様は、御自分を喜ばせることはありませんでした。

ローマ

15:3 キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。

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 祭司も、主イエス様から人としてどのように神の前にあるべきか覚えるとき、主イエス様の偉大さを知るのです。ですから、祭司もその歩みにおいて、自分を喜ばせることをしません。まして、捧げ物をするときに、自分の喜びということを考えて捧げることもありません。

 そのことは、教会において、人の喜びすなわち、人間的な観点からの捧げものを捧げるべきではないことを教えています。賛美や感謝は、神に栄光を帰しますが、感謝するにしても、自分の喜びや満足が中心になることがあるのです。

 捧げ物は、主への食物として捧げられる聖なるものであることを覚えて、捧げることは大切です。

2:12 それらは初物のささげ物として主に献げることができる。しかしそれらを、芳ばしい香りとして祭壇に献げてはならない。

 それらは、初物として捧げることができますが、祭壇の上で焼いて、主が満足される捧げ物として捧げてはならないのです。主は、御子イエス様を覚えて満足されるのです。人にとってどのような方であり、それが自分にとって喜ばしいという観点からのものとして捧げてはならないてのです。

 マナの味は、初めの頃は、蜜の味がしました。主イエス様を覚える初めは、自分にとって喜ばしい方として覚えます。初心の信者は、そのような観点からイエス様を覚えますから、その捧げ物も、自分の喜びが中心となる感謝になりがちですが、マナの味は、後には、油がたっぷりの味に変わります。聖霊に満たされたイエス様の味なのです。信仰の経験を経て、イエス様を知ることで、イエス様が穀物の捧げ物のように、聖霊に満たされて歩まれた方としての栄光を覚えるのです。自分もそのように歩むことを求めるからです。父なる神様にとって、そのように聖霊よって御心を行われたイエス様を覚えて満足されるのです。

2:13 穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい。穀物のささげ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのどのささげ物も、塩をかけて献げなければならない。

 穀物の捧げ物はみな、塩で味付けします。塩は、神の契約を表しています。その契約は、神の御心を行なうならば、報いとして永遠の栄光を与えることです。主イエス様は、十字架の死にまでも従われて、御心を全うされたのです。それゆえ、父の右の座に着けられ、永遠の栄光を受けられたのです。

 このことは、祭司が倣うべき模範を表しています。祭司も、永遠の契約のうちを歩むのです。

 そのことは、信者も同じように、神の御心を行うことで、永遠の栄光を受けることを表しています。塩で味をつけることは、このことを意味しています。

 なお、塩が腐敗を防ぐというような比喩的要素はありません。塩味であって、防腐効果を期待するならば、どっさり塩を入れなければなりません。漬物は、塩の防腐効果ではなく、発酵によって腐らないのです。有用な菌は、発生しています。

2:14 あなたが初穂による穀物のささげ物を主に献げる場合には、火にあぶった穀粒、新穀のひき割り麦を、あなたの初穂による穀物のささげ物として献げなさい。

 初穂は、よみがえりの比喩です。ここには、贖われた者としての歩みが比喩として示されています。それが、主イエス様の歩みであったからです。それは、肉にはよらず、聖霊によって歩むことです。それが贖いによって現されることです。

 火に炙った穀粒は、神の評価を受けた穀粒を表しています。神の御心に適ったのです。

 新穀の挽き割りは、新しく生まれたことが強調されています。それは、挽き割りにされました。いわば砕かれたのです。はじめらか砕かれているのであり、一切の高ぶりがないことを表しています。高ぶりは、肉の現れです。それがないのです。

2:15 あなたはその上に油を加え、その上に乳香を添える。これは穀物のささげ物である。

 その上に油を加えることは、聖霊が豊かに働かれることを表しています。肉によらない歩みは、聖霊が豊かに働く機会となります。「その上に」と記されることで、さらに豊かに働くことを表しています。

 その上に、乳香が添えられました。

2:16 祭司は、そのひき割り麦の一部とその油の一部、それにその乳香すべてを覚えの分として焼いて煙にする。これは主への食物のささげ物である。

 そして、祭壇で、挽き割り麦の一部と油の一部、それに乳香の全部を焼いて煙にしました。これが、主への食物の捧げ物となりました。主は、その香りで満足されるのです。

 なお、火で炙った穀粒は、捧げられません。それは、すでに主が評価したことを表しているからです。